毎月1日は月次祭
午前8時より斎行(参列自由)
1月1日:歳旦祭
年の初めに当たり、行う祭儀
1月14日:筒粥神事
27本の葭の筒に、お粥がどの位入るかによってその年の吉凶を占う古神事
お粥を用いた年占いの神事は小正月の神事として全国各地に伝わっていますが、熊野神社の筒粥神事は天暦3年(949年)より絶えることなく続けられ、1000年以上にもなります。横浜市の無形民俗文化財にも指定されている古神事です。
熊野山縁起によると
「我は熊野権現也 来る14日の晩氏子集りて 営む所の耕作の品 27本の筒に印して 我が神木なる梛木の本に釜を据へ 筒と米と梛木の葉と相雑て 暫く煮て筒を破りて 其年の吉凶をかんがえよ 又当百八郷の総社と現はる氏子に 如意吉祥を施す事専一とする也」
とあります。
神事は古式に則り、境内に大釜を据え、午前4時に御神木の梛の木の五つ葉と27本の葭の筒とお米一升をいれます。そして、御本殿裏の「の」の池の御神水を加えて粥を炊きます。
午後2時、粥が炊き上がると、神事が開始され、宮司が大釜の前にて大祓詞を奏上し、九字を切って釜の中から葭が引き上げられ社殿に運びます。 そして、氏子総代立会いのもと、引き上げられた葭の筒を一本ずつ割って、その中に粥がどの位入っているかで吉凶を占います。
占うのは、
大麦 小麦 早稲(わせ) 中手(なかて) 奥(おく)
ひえ 粟 大豆 小豆(あずき) 大角豆(だいかくず)
ふんどう(緑豆) 麻 菜 大根 荏(え) ごま きび
いも そば 霜粟(しもあわ) 夕顔(ゆうがお) かいこ 茶
といった24種の農作物。
次に、毎年どよめきが起こる最後の四つの筒、
「日」「雨」「風」 最後に「世の中」
その年の吉凶が占われます。古くは夕方に行われていたのですが、現在は午後2時から執り行われます。
神事が終わると、直会として大釜で炊き上がったお粥が振る舞われます。神様の御神威が入ったお粥ですので、これを食べるとその年は風邪を引かないと言い伝えられています。
毎年1月14日午後2時より行います。どなたでもご自由にご参列いただけます。
2月初午ノ日:初午祭
初午は、立春後、最初の午の日の祝いで、これは和銅4年2月7日の午の日に、京都(当時の山城国)稲荷山に祭神が鎮座したことに起因しています。
当社には、神明社・日枝社・稲荷社・天満社等の多くの境内社が鎮座しています。それらの境内社のうち、神社石段の右側に鎮座している稲荷社。 この稲荷社は大変に古く、『江戸名所図絵』(1834年刊行)や『新編武蔵國風土記稿』に、現在の位置に描かれています。
お稲荷さんは、お狐様として皆さんに親しまれていますが、元々、狐は眷属(けんぞく)、お使いです。
その御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)といい、京都の伏見稲荷大社がその本社です。毎年2月の最初の午の日に行われますが、それは全国の稲荷社の総本社である、京都伏見稲荷大社の稲荷大神が和銅4年(711年)2月の初午の日に、稲荷三ケ峰に鎮座されたという伝えに由来しています。
宇迦之御魂神というのは所謂、食を司る神様で、「ウカ」は「ウケ」を語源とし「ウケ」の「ケ」は稲や食を意味します。
朝餉(あさげ)・夕餉(ゆうげ)という言葉がありますが、その「ケ」の御魂の神ということです。一番我々に身近な御存在で大切な食の神様、農耕神として農業従事者を中心に古来よりずっと信仰されてきました。それが、江戸期になると町民にも受容されて、商売繁盛の神へと発展を遂げたのです。
また、食を司る根元の神は、同じ「ウケ」の神で豊受大神(とようけのおおかみ)と申し、伊勢神宮の外宮にお祀りされています。
伊勢神宮というと天照大神様を祀っているのが広く一般に知られていますが、それは内宮(ないくう)のことで、伊勢神宮は内外(ないげ)両宮から成り立ち、その外宮(げぐう)の御祭神が豊受大神様なのです。まさにこの神様が食を司る一番の大本であると言えます。
当社でも、毎年2月の初午の日に神事を執り行っています。
現在の稲荷社
平成13年12月、斜面の擁壁工事を含め、稲荷社を中心とした擁壁の整備を、皇孫の御誕生記念事業として行いました。
2月17日:祈年祭
年の初めに当たり、穀物の豊穣と国家の安泰を祈願する祭儀
6月30日:夏越の大祓
半年間の罪や穢れを拭い去り、後の半年を清々しく営む祭儀
大祓は、正しくは「オホハラヘ」とよみ、宮中・神宮をはじめ全国の神社で毎年6月30日と12月31日に行われています。
自らの罪穢と社会の罪穢を祓い去り、清き明き心に立ち帰って後の半年を雄々しく各自の使命に精励し、心豊かな社会作りをするための祭儀です。
その起源は古く、祓除(ふつじょ)又は大解除(おおはらへ)と称し、災害疫病等事あるたびに随時行われていました。現在のように6月・12月の定期に行われるようになったのは、文武天皇の大宝元年(701年)からです。
平安時代には大内裏の正面にあたる朱雀門前の広場に、親王以下百官が参集し、国民全般の罪穢を祓い除く行事が行われていました。
大祓詞は、先ず建国の由来を説き、かくて天皇の統治せられた国内に国民の過ち、犯せる罪穢が発生したならば、古伝による祓いの行事によって、これを払拭するのであります。即ち、天つ宮事以て天つ祝詞の太祝詞事を宣り、罪を祓つ物に付して川に流し、川から海に流し、そこから遠い沖合にある潮流の落ち合う潮の八百合に送り、更にそこから黄泉の国へ放棄するものと考えられていました。
大祓詞の原文は、延喜五年(905念)編纂を始め、延長五年(927年)に完成しました。当時の法令施行細則を示した『延喜式』五十巻の中の巻八「祝詞」に集録されています。
宮中の祭祀を司る家柄の中臣氏が、大祓の儀式のときに宣読したので「中臣の祓」とも言われています。これができたのは、遠く天智天皇(661年~671年)の時代と思われます。
大祓の壮大な構想と、流麗な文章はこれを唱するものに無限の感懐を覚えさせます。
故に中世以降神道の経典と尊ばれ、これを読誦すれば、私心を去って、清き、明き、直き誠の心に立ち帰ることができ、神々に近づくことができ、神慮を和め奉ると共にあらゆる祈願の趣旨が適うと信ぜられ、百度祓・千度祓・万度祓などと称して、繰り返し唱えることが行われるようになりました。
当社では毎年、6月30日 午後2時より神事が執り行われます。
どなたでもご自由にご参列いただけます。
7月1~7日:星祭
平成13年度より斎行されているお祭り。この「七夕祭り」を子供たちに伝える事は大変意義深く、また情操教育にも役に立つものと考えています。
七夕は皆さんご存知の、牽牛と織姫の恋物語でありますが、この七夕祭りが日本で最初に執り行われたのは、天平勝宝7年(755年)7月7日のことでした。
その後、江戸幕府が定めた式日で五節供(元旦・桃の節供・端午の節供・七夕・重陽の節供)の一つとなり、一般には「星祭」とも呼ばれています。
当社では現在首都近郊で減ってきた、「星祭」を平成13年より開催しています。この「星祭」を伝える事は大変意義深く、また子供達の情操教育にも役に立つものと考えております。
大人から子供まで天空の二人に思いを馳せ、短冊に願い事を書いて掛けてみませんか?
7月土用丑ノ日:病災除け神事
胃病(癪)に悩む人々のために行われる秘伝の祈祷
7月(土用丑の日)、病災除神事が執り行われます。
これは病気封じの特殊神事で朝早くから善男善女が集まります。
幣殿で宮司が、参拝者の病気を人形に移す特別の祈祷を行います.
―神伝二字切之術瘤飲癪のまじないー
しんでんにじきりのじゅつりゅういんしゃくのまじない
というもので、当社の秘伝でもあります。
その後、人形を胡瓜の中に封じ込め、土中深く埋めると
不思議と痛みがぴたりと止むといわれています。
8月1日:弁財天例祭
「江戸名所図絵」(1829年成立)にも描かれていますが、「い」の池の岸辺に弁天様の祠がひっそりと祀られています
8月24日:例祭(年に一度の大祭です)
横浜きっての荘厳な祭儀です。
祭儀に先立ち修祓、国歌斉唱の後、 教育勅語を奉読し祭儀を開始します。
現在当社の例祭は、8月24日に行われますが、大正12年までは9月1日に行われていました。
大正12年、当時の宮司石川金四郎宮司が祭礼日の直前になって、その年の祭礼行事については全て中止すると突然決定しました。周囲は何を血迷ったかと思ったようですが、宮司は神様からのご神意を授かったのでしょう。
ご存知の通り、その年の9月1日はあの関東大震災が起こった年でもあります。
本来ですと地震の起こった午前11時58分、境内は人で溢れかえっていた筈なのですが、宮司の英断により境内には一人もおりませんでした。それ以降9月13日に祭礼日が変更され、昭和45年からは8月24日に行われています。
11月15日:七五三祝
丁寧な神事とサンリオキャラクターの授与品で年々、詣でる人が増えています。
11月23日:新嘗祭
新穀を天神地祇にすすめ、収穫を神恩に感謝するとともに、天皇親しくこれを聞こし食される、伝統の行事です。